人間だれしも、同じパターンをくり返してしまうことってありますよね。
そしてそれが、苦しいなあとう思うこともしばしばです。
例えばね。
誰かとの関係で、何かすっきりしない。
相手に本音を伝えたのに、なにか気持ちが晴れない。
相手に「せっかく」本音を伝えたのに
相手に軽くあつかわれたり、逆切れされたり。
せっかく、本音を伝えたのになあ
ちゃんと勇気をだしていったのになあ。
ということもよくあることです。
いうってことはすごく勇気がいります。
でも、そこもちゃんとできた。素晴らしいと思います。
でも、思ったような結果にならなかった。
なぜなんだろう。
それはね。
腹が立ったときの自分の「本音」をちゃんと見つけていないから
すっきりしないんです。
もう少しお話しします。
「もっと、○○してほしかった!」
「なんで、××したのよ!」
こういうのも「怒りを出す」という
第一ステップとして大切です。
第二ステップとして
「あのとき、○○されて、悲しかった」
「もっと、××してほしかった」
これも結構本音に近づきました。
こんなことでさえ、いうのはとっても怖かったりしますよね。
でも、これは実はまだまだ本音ではなかったりまします。
その奥にもう少しあります。
「わたしは、あのとき、○○されて、悲しかった」
「わたしは、もっと、××してほしかった」
と、わたしを主語にして本音をいってみたけれど
(よくIメッセジーで伝えようといいますが)
ここまでだとじつは
ただ、相手を責めているだけにすぎません。
いわれた相手は
「責められた」と感じて無視するか、離れるか
「反撃」するか
「いまさらいわれても」と開き直るかもしれません。
例えば「怒っている」であれば、
「見たくないなあ」という“気”に触れただけなのです。
自分たちの中にある、地雷が爆発しただけなのです。
幼いころに勘違いして思い込んでしまった、“気”のせいで
自分が自分の周りに地雷を仕込んで(守るためにね)
誰かに踏ませて自分でおどろいてしまったのです。
自分以外を認めることができないとき、周りや相手を責めることで
平静を保とうとすることが多いかもしれません。
他人は自分が用意したキャストです。
自分の内面を理解するために用意されていて、それを演じています。
多くのひとは、どうしても自分の主観のみで世界を観ています。
問題があらわれているときほど、そうです。
「理解してもらってない」となるのは、自分を理解していないから。
相手から自分の中を見ていくと、自分の中がわかります。
エモフリでも
ビジュアルフォーカシングでも
それらはツールであるけれど
主観以外で世界を見ることを可能にします。
自分自身に対しても、相手へも
見えない世界への見方もかわってきます。